無依子さん弁明す(そして深まる苦悩)



 俺が学校から帰ると、無依子さんは昨日と同じようにソファに座って、プリンをストローで吸っていた。
「おかえりなさい」
 ずじゅじゅじゅじゅじゅ、とプリンが嫌な音を立ててストローの中に吸い込まれていく。斬新という他ない食べ方だったが、こぼさない分スプーンよりはましなのかもしれない。俺が呆然としていると、無依子さんは首をかしげて聞いてきた。
「有依もプリン食べる?」
「……いや、いい。部屋に鞄置いて、着替えてくる」
「うん。待ってるね」
 ずじゅじゅじゅじゅじゅ。

 部屋に入って、俺はひとまず座り込んだ。無依子さん。俺の母親だという女の人。親父が言うんだからそういうものなんだろう。だからといってすぐに受け入れられるものではないが、そんなことよりもまず、無依子さんは強烈過ぎた。実質一時間も接していないのにわかる。存在そのものから乖離している人だ。「会いたかったわ私の有依ちゃん!」とか叫ばれて抱きつかれても、そりゃ、困るけれど。「プリンの蓋開けて」とか「食べさせて」とかやられた方がもっと困る。いったいなんだったんだあれは。だいたいあの人、うれしそうに笑いはするけどやけに淡白だし。こっちはまだ嬉しいのかどうかもよくわからないのに。
「……行くかあ……」
 重い腰を上げる。待ってるねと言ってたし。あの様子だと、俺が帰ってくるのを待ってたんだろうし。なにかしら話してみればまた変わるだろう。多分。


「ねえ、触っていい?」
 着替えた俺が下に降りると無依子さんは目をきらきらさせて聞いてきた。俺は口を噤んだ。無依子さんはそれを了承と取ったか、俺の頬をぱふぱふと叩いた。
「骨格は私似なのね。狼人だからか。ざらざらね」
「はぁ……」
 くふふ、と笑いながら無依子子さんは俺の肩をつまんでぐにぐにと力を入れてくる。
「うわー筋肉ついてる。男の子なのね」
「そ、そうですよ」
「おなか触っていい?」
「ち、ちょっとだけなら……」
 親父早く帰ってきてくれ。
「腹筋はあんまりないのね」
 うぐぐぐぐ、くすぐったい。
「あ、鼻に皺寄ってる」
「くすぐったいから……」
「そうね。尻尾で最後にするから」
「……はい……」
 尻尾を触るのは決定事項らしい。尻を突きだすとすぐさま尻尾が握られた。
「太いなあ。ねえ、動かしてみて」
「ん……」
 ぺそぺそっとお愛想程度に尻尾を動かすと無依子さんは何が楽しいのかわあとかきゃあとか声を上げた。このまま放っておくといつまでも遊ばれそうだったので、無言で切り上げてソファに座る。興奮のあまり立ちあがっていた無依子さんもすとんと横に座った。
「有依が生まれたばっかりの時はね、ぴろぴろだったのよ、尻尾」
「ぴろぴろ?」
「うん、こうね、くっついてるだけ。大きくなるものなのね。生き物って凄いなあ」
 どうも人間の成長じゃなくてヒトデの分裂増殖について驚いているようなニュアンスだった。
「俺が赤ん坊の頃知ってるんですね」
「産んだんだから当たり前じゃない」
 気を取り直して鎌をかけてみたつもりが、あっさり正面突破されてしまう。やっぱり実の母親なのか……非人間的な美人だから血が繋がっていない義理の母親とかそういうことをちょっと考えてはいたんだけど。そうか。実の母親なのか。
「自分が産んだ仔供ってかわいいのね」
 ちょっとした豆知識みたいな調子でそんなことを言う人が自分の母親というのはちょっと、いやかなり嫌なんだけど、それでいて理性抜きの感情とか感覚の部分では妙にしっくりくる。いくら美人が相手でも、こうやって体を弄り回されたり傍若無人にされたりしたら、普通はもうちょっと腹が立つはずだ。そうじゃないということは、どこかで母親のことを覚えていたのかもしれない。
「そうだ、有依も私の体触る?」
「いえ結構です」
 ちょっとしんみりしていたのがその一言で吹き飛ばされた。ついでに死にたくなった。なにしろ昨日の俺はこの人のことをエロいとかなんとか考えていたのだ。ましてやなんか体触られて、こう、興奮しまくって。知らなかったとはいえ母親を性的な目で見ていたとか。死にたい。便器に顔突っ込んで溺れ死にたい。
「どうしたの? お腹痛い?」
「いえ、自分が痛いっていうか……大丈夫です」
 すぐさま伸びてくる手を俺は丁重に振り払った。無依子さん心配してるふりして触りたいだけじゃないか? なんとなく、手つきに楽しそうな気配がある。しばらく残念そうにしていた無依子さんだったが、やがて思い出した、と手を叩いた。
「そうだ。有依に聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう」
「私母親をやりたいんだけど、なにをしたらいいと思う?」
 この人と結婚して、仔供まで作った親父を、俺は男として尊敬した。同時に息子として恨んだ。
「は、母親って」
「血統や続柄、私自身の感覚において私は有依の母親だけど、有依にとってはあまりそういう感じがないでしょ?」
「えっ……」
「どうしたらいいと思う?」
 そんなむきだしのかなしいことばを差し出されて、どうしたらと、言われても。当惑する俺と困惑する無依子さんはしばし見つめ合って、しかしそこに答えはない。
「え、えっと……」
「うん」
「まず、その、俺、無依子さんのこと、あんまり知らないっていうか、全然知らないので、そこんとこ」
「そうね。そうだ、だったら有依のことも話してくれる? お互い自己紹介しましょうか」
「は、はい」
 自己紹介、と無依子さんは飴玉のように言葉を舌の上で転がす。もしかしてこうして俺と話しているだけで楽しいのかなとか、そんな都合のいいことをちらっと考えた。
「私の名前は二条無依子です。狼人で、女で……あれ、今何歳だったかな。二十五だったような気がするんだけど」
 ちなみに俺は十六歳。25-16=9。
「アウト」
「え?」
「いえ、なんでもないです。多分親父が知ってますよ」
「そうね。和弘さんに聞こうかな」
 無依子さんはこっくりと頷いた。いろんな意味でおとぎの国の住人な彼女は確かに年齢不詳だが、最低でも三十は越えているだろう。そうでないと困る。親父が九歳の女の子にガキ産ませるような真性鬼畜野郎だった場合、そんなのとこんなのから生まれた俺は明日から生きていけない。
「ねえ、次は有依の番よ」
「え、うん……俺の名前は二条有依で、狼人で、十六歳で、高校生です」
「こうこうせい?」
「中学校の上です」
「ああ……学生なのね」
 なるほどなるほど、と無依子さんは頷いた。いろいろと突っ込みどころが多い反応だったが俺には触れないだけの勇気がある。
「学校って楽しい? 友達いる?」
「友達っていうか、悪友っていうか……一緒にいて楽しい連中なら」
「よかった。有依は彼らのことが好きなのね」
「は、はい」
 くふふ、と無依子さんは笑う。
「有依が友達と楽しいのを想像すると、私まで楽しい」
「なんかそれ、凄い母親っぽい言葉だと、思います」
「そうかなあ」
「はい」
 そうなんだ、と無依子さんは頷く。うれしそうに。だから。
「えっと……いきなりっていうか、かなり、きついことなんですけど、聞いていいですか」
「ええ」
「どうして……どうして、俺と親父置いて、出て行ったんですか」
 一転して無依子さんの耳が悲しげに伏せられた。楽しいままでいてほしかったなと思うのに、ざまあみろと思っている自分がいる。だってそうだ、いきなり帰ってきて母親ですって、虫がよすぎる。帰ってきたことに文句があるわけじゃない。別にそれは、嬉しいことだと思う。ただ、どうして出て行って、どうして帰ってこなかったのかという理由は、結構重くて痛い。他に男ができたとか、なんか仲悪くてとか、そういう理由だったら俺は許せないし受け入れられない。そんな人にいまさら母親面されたくない。俺の強張った表情に気づいてか、無依子さんはすっと瞳を細めた。
「出て行った……か。そう聞いた?」
「そういうわけじゃないですけど。そうじゃないですか」
「そうね。何と言えばいいのか……空言のようだけど、私は有依と和弘さんと一緒に暮らしていたかった。自分の家族だから。ただ、それでも、この家を離れるのは避けられないことだった。その理由を普通のいい男の子として育った有依に明かすつもりはない。どうしても言葉に当て嵌めるなら……義務と血、かな。惑わすだけで悪いけれど、これが有依に対する誠と秘すべき真の妥協点。帰ってきたこの身一つを以て証とするより他に私が有依に示すことのできる本当はない」
「……よく、わからないです」
「わからないように話しているからね。結構卑怯なのよ、私」
「本当に卑怯なら嘘で誤魔化してほしかったですけど、そうしないっていうのは、わかりました」
「ずるい?」
「……ずるいです、そういう物言いは」
 ほろりと、涙をひとつぶだけこぼして。無依子さんはかろがろと笑った。そうして俺は、一片の翳りもなく白い無依子さんの瞳が血のように赫いのを知った。


 親父が帰ってきて、三人で夕食を食べて。無依子さんが風呂に入ったのを見計らって、親父は俺のところへやってきた。
「どうだ有依、無依子さんは」
「どうって……まだ、よく、わかんないよ」
「そうか。まあ、そうだな。写真も残せなかったからなあ」
「……親父、あのさ。無依子さんが出て行った理由って」
「すまんが俺ではどこまで教えていいかわからん。無依子さんに直接……って、その顔はもう聞いたって顔だな」
「……うん」
 考え込む時の癖で、親父は鼻に皺を寄せながら目を眇めた。
「詳しいことは言えんし、お前にどうにかして納得してもらうしかないんだが、こればっかりはなぁ。ただ、無依子さんは本当にお前と一緒にいたかったんだよ。これだけは信じてやってくれ」
「……それは、信じるけど……まあ、どうにかして決着をつけるよ」
「あんまり難しく考え過ぎんなよ……と言える義理でもないんだが」
 親父は溜息をつく。と、風呂場のガラス戸ががらりと開いた。
「和弘さん、パンツ」
 現れた無依子さんは、一糸纏わぬというか、生まれたままの姿というか、裸婦像というか、まあ、要するに、ハダカで。
「うわわわわんっ! 無依子さん、有依、有依!」
「和弘さん、パンツ」
「わかったから! わかったから戸を閉めなさい! 持ってくから!」
「うん」
 ソファから転げ落ちた俺と親父を気にするでもなく、無依子さんの姿は風呂場の湯気の中に消えていった。
「……」
「……」
「有依」
「はい」
「見たか?」
「忘れる」
「頑張れ。まあなんだ、ほら、母親の裸なんて見ても、あれだしな」
「言葉にするんじゃねーよ! 忘れるって俺言った! 見ない! 忘れる!」
「お、おお、すまんな」
 ふるりとした乳房とか、腰が描く稜線のあわい曲線とか、脚の付け根の白い茂みとかな。あっちょっと死にそう。ちょっとマジで死にそう。今なら俺自己嫌悪と羞恥心だけでこの世のマザコンを抹殺できる。主に俺がマザコンじゃないという証明のために。
「どうかしたの? パンツは?」
 大声に反応して、禁断のガラス戸が再び開かれようとする。
「出てこんでいいです!」
「今持ってくから待ってなさい!」
「はーい」
 二度目はどうにか防ぐことができた。親父と二人、ほっと胸を撫で下ろす。慌てて箪笥へパンツを取りに行こうとする親父を見ていると、ふと悪戯心が湧いた。
「なあ、親父」
「どうした?」
「弟とか妹とか、作ったりすんの?」
 振り向いた親父の顔は限界まで目を見開いていて、最高に見物だった。
「こんのマセガキ!」
「あてっ」
 振り上げられた鉄拳をかわして階段に逃げる。親父はがるるるると唸っていたが、不意ににやりと笑った。
「よし、そこまで言うなら作ってやろう。だから今日は早く寝るんだぞ。それとも気になって寝られんか? ん?」
「うううううううるっせーよ! うるせーよ! うるせー! うるせえええええ!」


 俺は徹夜した。




アトガキ:
最後の一行がやりたくて書いた。全然笑えるような状況じゃないんだけど外から見る分には笑っちゃうような感じを目指している。一番痛いところに触れたから後はもうそんなでもないかな、と母子はお互い思っていたり。こういう話は脇役な父親こそキャラが立ってないと物語が自立しない。今回の父親はそこそこ成功かなーと個人的には思っている。